奈良の昔話

奈良市

【興福寺】 猿沢の池の竜

昔、奈良に鼻の大きな蔵人というお坊さんがいました。

その鼻は人並みはずれて大きい上に先も赤かったので、

世の中の人は鼻蔵とよんでいました。

鼻蔵さんはそれが、しゃくにさわって仕方が有りません。

ある日、大きな立て札を持ってきて、猿沢池のほとりに立てました。

その立て札には「五月五日、この池より、竜のぼる」と書いてありました。

これは鼻蔵さんのいたずらでしたが、この事が都中の評判になり

大和の国はだけでなく近畿地方一帯にうわさが広まり

五月五日になると沢山の見物人が押し寄せてきたのです。 

鼻蔵さんは、はじめおかしくて、いい気味だと思っていましたが、

しまいには恐ろしくなってきました。 しかし、「まあよいわ、そのままにしておけ、

ひょとすると これは仏のおぼしめしで、本当に竜があがるかもしれないぞ。」と

思うようになりました。とにかく、自分も見に行こうと、

坊主頭をかくして興福寺の南大門の方へ 見物に出かけました。

興福寺の南大門の芝生のあたりから、猿沢池のまわりには、

何千という見物人が、竜のあがるのを、今か今かと待っています。

午後になって空は曇ってきて 黒い雲が空をおおい今にも竜が

あがるかもしれんというような景色になってきました。

そこにあめがふってきて、さらに雷までも鳴ってきました。

「さぁ、 もう竜があがるぞ」「いよいよ、 あがりそうだ」と人々は 

騒いでいましたが、とうとう竜はあがらず、

見物人もちりちりになって帰ってしまいました。

【興福寺】 猿沢池の采女神社

猿沢池の西端の采女(うねめ)神社の社殿は、

入り口の鳥居に背を向けて建っている珍しい神社。

これには采女の悲しい伝説が秘められている。

文武天皇に仕えていた采女(女官)が、天皇の心変わりを嘆き名月の夜、猿沢池に身を投じた。

采女の入水を知った帝はその霊を慰めるため、池のほとりに小さな社を建てたのが采女神社。

采女の霊は身を投じた池を見るに忍びず、池に背を向けてしまったと伝えられている。

池の東には采女が身を投じる前に衣を掛けたという衣掛(きぬかけ)柳がある。

毎年、中秋の名月には采女の霊を慰める采女祭が行われている。

【興福寺】 石子詰の三作

奈良の興福寺の南側の道を東へ登っていくと右側に菩提院のの大御堂があります。

むかし、ここに寺子屋があって読み書きそろばんを教えていました。

興福寺の稚児の三作(みのさく)が習字のお稽古をしていると

春日大社の鹿がやってきて三作の習字草紙をくわえました。

三作は鹿を追い出そうと「けさん」(今の文鎮のような物)を投げつけると運悪く鹿の

急所に命中し、追い払うつもりが殺してしまった事に。

当時、春日の鹿は神のお使いといわれ、神鹿を殺した物は石子詰の刑といって、

殺したしかと一緒に生き埋めにされる事になっていました。

三作はその罪によって寺の東の深い穴に入れられ、

死んだ鹿と抱き合わせにして石を詰め込んで生き埋めにされたといいます。

その時、三作13才。

三作の母は子供の永遠の供養にと墓地に紅葉を植えました。

それから「鹿に紅葉」という組み合わせの言葉が生まれたとか。

寺では三作の供養のため明け七つ(午前四時)と暮れの六つ(午後六時)に鐘を鳴らしました。

合わせて十三、三作の年齢も十三にちなんででのことでした。

これで「十三鐘」といい、近松門左衛門の芝居唄の一節にも。

「せめて我が子の菩提のためと、子ゆえの闇にかきくもる、

心は真如の撞鐘(つきがね)を一つついては、一人涙の雨やさめ、

二つついては再び我が子を三つ見たやね四つ夜毎に泣き明かす、五つ命をかえてやりたや、

六つ報いは何のとがぞ、七つ涙で八つ九つ、心も乱れ、問うも語るも、

恋しなつかし、我が子の年は、十一、十二、十三鐘の、鐘の響きを聞く毎に、

可愛々々々々々々と共に泣きに、なくは冥途のカラスかえ。」

十三の鐘を撞く事がせめてもの三作の霊を慰める事でありました。

  

【興福寺】  宝蔵院流の槍

もうひとつ、興福寺にまつわる伝説として、宝蔵院流の槍の話をしましょう。

昔、興福寺の一院に、宝蔵院という寺がありました。(現在の奈良国立博物館の西側あたり)

ここに、槍術が大好きな胤栄(いんえい)という法師が居ました。

胤栄法師は武士四十人あまりと試合をして、勝ち抜き自分の力をしめそうとしましたが、

望みを果たすことができませんでした。だが槍術をきわめたいという夢を、あきらめる

ことはできません。

そしてある年のこと、夢枕に春日明神がたち、のちに宝蔵院流槍術の特色となった、

磬(けい)と鎌槍、地蔵仏を授けられました。それに力を得た胤栄法師はその後猿沢池に

うつる月影を相手に、毎夜けいこを続けました。そしてとうとう、宝蔵院流の槍を開眼した

のだと伝えられています。

 
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